あの家

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ー 2011年。

わたしは、家を5回引っ越した。

理由はいろいろあったし、とにかく精神的に参っていた。

 

ことの発端は、同年の3月。

長くいたアパレル業界を辞め、不十分な貯金(というより残高)を握りしめて、ロンドンが好きという十分な理由でイギリスへ飛んだことだった。

 つまり、ロンドンで5回引っ越したのだ。

 

 

最初の家は、日本からインターネットでみつけて、日本人の女の子たちがシェアしているという一軒家に決めた。

ヒースロー空港に降り立ったその日、近くの駅で家の借主である女の子と待ち合わせをして、一緒にバスで家に向かった。夕飯は中華丼を一緒に作ったんだった。

語学学校からちょっと遠いことを除けば、広くて、快適で最高のスタートだと思った。同世代の女の子同士というのも楽しかった。 

一ヶ月が経ち、英語に焦っていたわたしは、このままではダメだ、と引っ越しを決めた。

 

2軒目は、英国人ファミリーの家にこだわった。

借りたのは、シングルマザーのお母さんと、20代の息子2人と、猫2匹が暮らす一軒家のひと部屋。銀行の手続きも、携帯の契約もお母さんが付き合ってくれた。息子たちもやさしかった。わたしの拙い英語にも根気強く付き合ってくれた。それなのに私は、バターを勝手に使われることが許せなかった。毎朝、毎朝、わたしのバターについたえぐられた跡をみることに異常な怒りを覚えた。

なんでそんなこと?と今なら思う。

 

でも、当時のわたしは、家族に迷惑をかけないようにと、自炊をしてはすぐにキッチンを掃除し、お風呂は床が濡れるからとシャワーで済まし、夜は彼氏との電話も布団にくるまって小声でした。

 

そして、人のバターを勝手に使う無神経さが許せなかった。

意を決したある日、「バターを勝手に使わないで欲しい」とお母さんに告げたら、見たことない顔で何かを叫ばれ、1週間以内に出ていかなければならなくなった。

 

 

ー 3軒目

フェイスブックで投稿した私の状況をみかねた友人が「あいつシェアする人探してたよ」と知人を紹介してくれた。

昼間はレコード店、夜はDJをしているというおしゃべりな日本人男性だった。公園を一望できる広いリビングのある洒落たマンションのひと部屋。

彼との約束事はひとつ「警察がきてもドアは開けない。何か聞かれても知らないと答える」というものだった。

何かおかしいと疑うより、この人と繋がっておく方が大事だと思った。その辺わかってるからという謎のかましを決めて、家も決めた。

 

2ヶ月後、大麻の匂いが充満する部屋に帰ることが耐えられなくなった。

 

 

ー 4軒目

語学学校で仲良くしていたイタリア人の友達が「うち一部屋空くよ」というので家を見に行った。案内してくれたフリーダ・カーロみたいな女がそのシェアハウスの長(おさ)で、翌日からイタリア人男女との5人暮らしが始まった。

 

ここでは、人生初の不眠症を経験した。

 

原因は、フリーダ・カーロに嫌われたことだ。

引っ越した初日、私が夜ドライヤーを使っていると扉をドンッと殴られた。気のせいかなと思って、再び乾かしていると今度はドアを蹴ってフリーダが入ってきた。びっくりしている私に構わず、コンセントを引き抜き、とんでもないボリュームでヒステリックに叫び倒し、中指を立てて出て行った。

どうやら、楽しみにしていたテレビ番組の時間だったらしい。

いや、知らん。

そんな心の声で笑い飛ばせるほど、当時のわたしは強くなかった。理由がなんであれ、誰かからの明らかな嫌悪を向けられることは辛い。声の大きなイタリア人の中で、わたしはどんどん喋れなくなってしまった。寝ても覚めてもフリーダのことが頭から離れない。会わないことだけを考えながらビクビク生活していた。

 

そして、

不眠症になった。

 

電気を消して目を閉じても一向に眠れず、窓から差し込む夜の淡い明かりにもすっかり目が慣れてしまったある夜、一匹の鼠が、わたしの首の上を走っていった。ノイローゼでみた幻ではない。生々しい感覚とともに、しっかりとその姿をみたのだ。恐怖を感じたのに悲鳴の一つも出ず「あー、引っ越そう」と冷静な声がでた。

わたしのメンタルの限界はとうに越していたのだ。

 

 

ー 5軒目

グラフィックデザインのバイトをしていた職場の同僚が、イギリス人の彼氏と結婚するので実家のひと部屋が空くという。

5軒目にして、英国人ファミリーに戻ってきた。

といっても、友人の旦那になったルークの父親ピーター(おじいちゃん)との二人暮らしだ。母親はもともと離婚していてそれまで二人暮らしだったそう。

ロンドンの北東にある小さな町の一軒家。壁は憧れのブリックで、玄関の青い扉をあけて階段を上がると私の部屋と専用のバスルーム、そして共有のキッチン&リビングがあった。ピーターの寝室はさらに上のサンルーフ。

 

朝起きると、近所に住むルーク夫妻がクロワッサンを焼いてもってきてれくれて、みんなでライブ中継していたアンディ・マーレーの試合をみた。

なんて幸せな景色だろう。もう一生ここに住みたいと思ったし、実際、東京に戻るまでの2年半をその家で過ごした。

クリスマスにはみんなでパーティーをしたし、ピーターに彼女ができてからは一緒に公園にも行ったし、テニスもした。

 

 

帰る家がある、ということはこんなにも心穏やかに過ごせるのかと知った。

 

わたしのロンドン生活とは、あの家のことだ。

 

 

 

ー2013年、

東京に戻ったわたしは、インテリアの仕事に就いた。

家にかかわるデザインがしたいと思ったからだ。

 

 

そして去年、

ピーターの息子、ルークが自殺した。

友人である妻と幼子2人を遺して、ベランダから飛び降りた。

わたしには隠していたが、ずっと心の病と戦っていたということだった。

 

わたしはこのことをどう考えたらいいか、

いまだにわからない。

 

 

 

ピーターのことは、時々思い出す。

でも、きっともう会うことはない気がしている。

 

 

それでも、いつか、

いつか、会う日がきたらいいなとも思っている。

 

 

f:id:suratanmen:20180817161012j:plainクリスマスプレゼントを包むピーター
 

 #ロンドン #思い出