2024/11/06 食欲
朝から、コストコで買った鶏もも、鳥手羽、ベーコン、蛸を切り分けて冷凍した。無心になりたい時の作業用BGMは、ぼる塾田辺さんのYouTube。
田辺さんは、人の悪口を言わないし、好きなものを買って経済回してるし、食べることを大事にしてるし、パワー切れな日もありのままでいてくれるし、見ていて疲れなくて心がニュートラルになる感じがする。
とくに、ひとりで思い出し笑いをする田辺さんがほんとうに可笑しそうでかわいくて癒される。
ひるご

風邪気味であんまり食欲がなかったが、Xで流れてきた長谷川あかりさんの雑炊を作ってみた。小松菜を春菊で代用。2人分をペロリ平らげた。
昼明けからの予定だったオンラインミーティングが30分ずれたので、『アナザースカイ』の伊野尾回を鑑賞。
アナザースカイは期待してない時こそ神回説、を今日も心に刻んだ。
仕事終了、からのマツキヨ→保育園お迎えへ。
スマホのメモ:キッチンペーパー、トレペ、おしりふき
紙を三種!
6時前になると外はもう真っ暗だ。保育園から自転車で帰っていると、後ろから息子が「あ、さっきKちゃんにまたあしたあおうねーっていうの忘れたー」と残念がって「またあしたいえばいいか」と即解決していた。
息子は、帰り際お友だちに声をかけるときいつも「またあしたあおうね〜」という。またねー!でもなく、バイバーイだけでもなく必ず「またあしたあおうね〜」だ。
なんかすごい明日を楽しみにしている感じがして良い言葉だなぁと思う。会社でもそう言い合えたら人間関係の問題は8割解決しそう。
夜は、ごぼう、鶏肉、大根、にんじんで、けんちんうどん。
リスボン旅行記
「なんでポルトガル?」
という質問にパシっと答えられたことがない。
旅前も帰ってきてからも。
かわいらしい街並みのイメージや、
子連れ旅に良さそうな気候・治安、物価、
日本人の口に合うといわれるご飯、
シーフード。ワイン
言葉にしようとすればするほど、
後付けの説明みたいになってしまって、
自分の中にある実感からどんどん遠のいていく。
3週間もいたのに。










たかが2ヶ月前なのに、写真を見返すと本当に行ってたんだなぁと思う。
フライトは首都のリスボンでとって、どうせなら他の街にも足を伸ばそうと言っていたのに、毎日ゆるゆると過ごしているうちに、家族全員なんだかんだリスボンの心地よさに馴染んでしまい、無理に動かなくていいかということになった。
夫は、休暇ではなくリモートでがっつり仕事をしていたので、平日は息子とふたりで街にでかけて、夕飯はみんなで食べるという感じ。
6月といっても、夜8時くらいまで明るかったので、夕方仕事を終えた夫とみんなで散歩したり、レストランへいったりと夕〜夜を長く過ごせたのはよかった。
息子(4) との街歩き
はじめての海外、はじめての街並み、
息子はというとすこぶる元気に楽しんでいた。
一軒目のエアビは、中心部から少し離れたところだったので、街には毎朝バスで繰り出した。バス停には工事途中のような穴がどかんと空いてて、今ではもう利用されていないのかと思ったがちゃんと発着していた。
バス、路面電車、メトロ、Uber、乗り物にいい印象しかない息子は、どの移動も満喫していて「つぎなにのるー?」と積極性を発揮しながら、どんどん街に慣れていった。
わたしが降りるバス停を間違えて、メトロの駅までかなり歩くことになった時も「はぁーつかれたー!」と言いながらも足取りは逞しい。
なんか心強いんですけどー。
異文化に触れ、いつもとはちがう場所で息子が楽しそうにしている姿をみるのは嬉しい。

ここから落ちたら負けー!と石畳の柄をずんずん進む4歳児
旅にはカメラも持っていってたが、息子と二人のときにレンズを覗いて写真を撮るのは諦めた。他にも、気になったちょっとお洒落なお店を覗いて試着したり、フィガロでチェックしていた雑貨屋をまわったりとか、そういうことも早々に諦めた。
幸いにもリスボンという街が、強く物欲を刺激してこなかったのも良かったのかもしれない。これがニューヨークやロンドンだったら諦めきれただろうか......(無理)
世界遺産ベレンの塔。中に入るには長蛇の列だが、建物周りはだいぶゆるい。
一人だったら、入場の列にも並べたり、もっとあれこれ自由に見て周ったりできただろうと思う。でも、一人だったらきっとベレンの塔をこの角度で見ることもなかっただろうと思う。
狭い道をすれ違うトラムや、石畳の模様、見たことない鳥の色、でかい犬、でかいパン、ふつうの鳩。流してしまうような景色にいちいちリアクションする人が隣にいる街歩きは、一人よりもずっと楽しい。
カスカイス
最後の週末には、三人で海水浴へ行った。
電車で40分ほどいったカスカイスという街。
気温は30度を超えていたのに、海水は痺れるほど冷たかった。
ハネムーンでイビサ島にいったときも、海水の冷たさに驚いたのだけど、地中海はそういうものなのだろうか。浅瀬には入りつつも、地元民でも泳いでいる猛者は数えるほどだった。
小さい頃から海に囲まれた環境で育ったからか、海水浴の景色が好きだ。
チルと高揚感が交差するビーチ独特の雰囲気。
みんなこの時間を楽しむことに夢中で、国や文化の違いなんて誰もなにも気にしてない平和な感じ。市内とは違った一面が見えて、海水浴にいくとその国の輪郭がぐっと濃くなる気がする。
帰りの電車では、爆睡している息子の前の席で、若いカップルが永遠にキスしてた。
リスボン
3週間という、こんなに長い旅ははじめてでどんな感じになるんだろうと思ってたが、毎日の予定を立てることもなく、ガイドブックを読み込むこともなく、ちょっと疲れたなという日は夕方まで家でダラダラしたり、暑いという理由で近所ばかり掘り下げたりと、“計画性”と縁遠いとても我が家らしい日々だった。
自炊もしちゃうぞ、とか思ってたのに結局ぜんぜんしなかったな。笑
「まぁいいか」
実際、リスボンにはそんなゆるさも受け止めてくれる空気がある。
観光客も多くスマホひとつで不自由なく帰ってこれる大都市ながら、アーバン感が薄い。たとえばソウルでも、東京でも、ロンドンでも、ホノルルでも一日市内を動きまわったらアーバン疲れみたいなものがあるのだけど、そういうのがない。
その理由は、「物欲をそんなに刺激してこない」にもつながるのかもしれないが、街中に広告やコマーシャルなものが極めて少ないことによる効能じゃないかと思う。ていうか、こんなに広告物が少ない都市って他にあるんだろうか。
繁華街を歩いていても、まぁ無い。大型ビジョンなんて一つもみなかったし、大きな看板さえ見た記憶がない。東京にいるとあらゆる角度から問いかけてくる、価値、価値、価値、価値、意味、意味、意味、意味、効率、効率、効率。
そういう人の奢りが街に溢れてない。
ちゃんと深呼吸ができて、心が不思議とチャージされる街、リスボン。
夫の仕事がひと段落した夕方、石畳の道を三人で散歩している時間はいつも至福だった。満たされすぎて、この先いいことがひとつもないかもしれないと思ったけど、そんな事もなくてよかった。
帰ってすぐよりも、時間が経つほどに恋しくなってきているな。

いざ家族旅行へ ドバイ編
6月、家族3人でポルトガルへ行ってきた。
行き先はリスボンということだけ決めて、3週間分の滞在を予約。
国外渡航といえば、マタニティ期間に訪れた2019年のバンコクが最後だったのでコロナを経て実に5年ぶり!夫はパスポートが切れていたので再申請し、息子(4歳)は人生初のパスポートを入手して臨んだ。
久しぶりすぎる海外、さらに4歳児を連れて乗り換えありのフライト計20時間.......、大した情報もないリスボン... 3週間......(トラブルが起こらないはずがないではないか)
ここ数年想いを募らせ、自ら決めたことながら、「ポルトガルに3週間行ってきます〜」という余裕ありげな響きとは裏腹に、心の中はまさに冒険に臨むそれだった。
向こうの暑さは大丈夫だろうか
飛行機では大人しくできるだろうか
食事は大丈夫だろうか
熱やアレルギーが出たらどうしよう
道に飛び出して車に轢かれないだろうか
テロや大地震が起きないだろうか......
出発が近づくにつれ気掛かりなことがドバドバ溢れてきて、準備を進めながらも怖気付いていくわたし。さらに輪をかけて心配症な夫は完全に「楽しみ」を「不安」が上回っている様子で、出発当日はひとり無邪気な息子の明るさに支えられて家族3人空港まで向かうこととなった(笑)
それもそのはず。
物事の多くを感覚的に捉え、大体わかったを発動し、ディテールを見落としがちなわたしの性質によるあれやこれに誰よりも巻き込まれてきた人間、それが夫だ。
新婚旅行では、乗り継ぎの時間が無理っぽい、と出発カウンターで告げられたし、今回も深夜便のフライト(0:05発)をずっと一日勘違いしていて翌日空港へ向かうところだった。日時を間違えて予約するとか、逆方向の電車に乗るとか、あれなんか思ってたのと違うとか、肝心な手続きが抜けてるとか、通常時であれば感情を揺らすことなく対応してきたが、この状況下では致命的すぎる。
やらかしてないであれ。
出発カウンターに立つ夫の背後から、3人分のパスポートをぺラペラとめくりモニターに照会しているグランドスタッフの表情を注視するわたし。
ようやく、ビビーっとチケットが出てきて笑顔で渡された時には、夫の顔色もワントーン明るくなった気がした。
直後「ラーメンでも食べちゃう?!」と言っていた。
第一の目的地は、ドバイ。

旅慣れた友人に、8時間のトランジットが不安だと話すと「ストップオーバーで一泊しちゃえば?」と言われ、たしかに!と膝を打ちその通りに予約した。さらに、エールフランスかエミレーツかという迷いも「私ならエールフランスは選ばない」という彼女の一言に大きく影響を受けたものだった。
結果、その選択はとても功を奏した。深夜便のフライト中、10hのうち6hは爆睡してくれて、機内食によろこび、パウパトロールザマイティムービーを楽しみ、息子はとても調子良さげにドバイへと到着できた。早朝6時で入国審査もとっとと抜けられた。
この頃にはだいぶ余裕が生まれていたわたしと夫。
ホテルへと向かうべく、空港の外に一歩出ると、太陽直下の暑さと異国の空気に全身をぶわっと襲われた。その刹那、あぁ....これ、これを味わうために来たんだったと心も完全に溶けた。
子連れ海外にさして前向きではなかった夫を説得(ニアリー洗脳)しつづけたここ数年。あまりの圧に夫を怯えさせながら、自分でもなんでこんなに海外に行きたいのだろう......とふと考える瞬間がなかったでもない。
海外駐在をうらやましく思い、海外住みの子育てエッセイばっかり読んじゃうのはなんでだろう。
子育て、会社員、東京、SNS。
育児は楽しい。日々も充実している。でも日本を出ずに「母」として過ごす時間が増える中で、少しづつ息が詰まっていたのも事実だった。周りに迷惑をかけないように、失敗しないように。40代らしく、親らしくちゃんとみえるように。(※できてはない)
わたしは、日々そういうことばっかりになっている足元を揺るがしたかったのだと思う。
わたしたちがドバイの空気を浴びていると、フライトを終えた風のCAさんが電子タバコをふかしながら颯爽と通り過ぎていった。
旅が、俄然楽しくなってきた。


翌朝一人で散歩した時の写真。一泊のホテルステイだったけどプールも楽しんで、いい旅のスタートになった。
(つづく)
術後半年検診
転移なし。再発なし。
腫瘍マーカーってやつを久しぶりに経験して、どっと疲れた。
結果を待つソファで、地震!と思ったら自分の心拍だったし、先生にピルのことを質問しようと思ってたのに診察室へ呼ばれた途端忘れた。
机には、肺のレントゲン画像が写されていて、
どの検査も異常がなかった、と先生から告げらた。
土曜日の、15:30。
来た道をチャリで爆走してまっすぐ家に帰った。
ここ数日、カートに入れたり辞めたりしていた
カメラレンタルを予約した。
翌日は、先月会社を辞めた同僚と
新大久保でチュクミを食べて、茶して解散して、
夜はタコスを作った。
伊勢丹の地下で買ったアボカドが美味しかった。
「がん」が怖い。
見つかったら向き合わなくてはならない感じがするから嫌だ。
人生を重い感じにしてくるのも嫌だ。
大したことない毎日だけど、それなりに面白がって生きているので、もうしばらく距離を置いといてください。
頼むよ。
家の匂い
今週いっぱいまで仕事を休みにして、家でゆっくり過ごしている。
息子は保育園へ行き、夫は自室で仕事を。わたしはリビングでコーヒーを飲みながら今これを書いている。庭の草木が紅葉していて日差しが暑い。なんだこの季節。
退院した日、保育園から帰ってきた息子に「おかえりー」と声をかけて玄関に向かった。息子は「ままぁーー!」と駆けてきて、しゃがんで両手を広げたわたしの首に小さな手を回し、わたしはわたしで息子のやわらかな輪郭に顔を埋めてしばし抱き合った。
体を離すと、「きょうね、ぱぱすこしはやくお迎えきたんだよ」と照れたように教えてくれた後に、もう一回抱きついてきたのがかわいかった。
夫は動画を撮りながら泣いていた。
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2週間ぶりの息子は、エレベーターのボタンに手が届くようになっていたし、滑舌もなんかしっかりしていた。「あのさ、このきょうりゅうは、にくしょくとそうしょくのはいぶりっどなんだよ」と恐竜の知識も増えていた。
夫「たろー(*仮名)、くつ下洗濯かごに入れといてー」
息「おっけー」
息「ぱぱー、レゴブロックだしてー」
夫「いま洗い物してるから待ってー」
息「おっけー」
男二人の関係もなんか頼もしく進化していた。
3歳児も不安だっただろうが、42歳男もお見舞いに、仕事に、保育園の送り迎えに、買い物に、ご飯作りにほんとうによくやってた。
あらためて、家族3人でぎゅっと乗り越えた怒涛の2週間だったなぁと思う。
今年のはじめ、夫に愛想を尽かして家出をしたことがあった。瞬発的にキレたというよりも、蓄積したドロドロが何周も渦巻いてもう一緒にいるのはほんとうに無理、と諦めの境地にまで達した11ヶ月後、こんな形に進化しているのだから家族って、夫婦って、ほんと何なんでしょうか。

しんどい、の正体
これを言ったら相手にどう思われるだろうか....
自分はどう映るだろうか....
大したことない自分を少しでもよくみせたくて、コミュニケーションにおいての消極性をいかんなく発揮することは多々あった(というかそれがベースで生きている)のだけど、他者の感情を受け取るのが怖い、という理由でコミュニケーションから距離を置いたのははじめてだったかもしれない。
「がん」という言葉のインパクトはそれほどまでに強い。
ステージに関わらず、相手を少なからず動揺させることになる。
わたしの場合、夫と一人の友人以外にはしばらく言えなかった。
とくに、乳がんを宣告されてからの検査続きだった時期が一番しんどかった。CTやMRI、血液検査、職場にも言えない状態でなんとか都合をつけて通院を重ね、一つ一つの結果を外来でビクビクしながら受け止めていた時期。
じつはもう見えないところで全身に転移しているんじゃないか。その一欠片が先に見つかっただけなんじゃないだろうか。テレビをつければがんのCMが流れてくるし、スマホを開けばがんのニュースが表示される。夕食の後は息子と一緒にベッドに入り、寝顔をみながらぼうっとすることが増えた。
病院には、毎回チャリを20分ほど爆走させて通った。
川沿いの一本道。夫は熱中症を心配したが、大丈夫と言って毎回そうした。
景色には感情がなくて楽だった。
診察室を開ける勇気は、最後に渡る大きな橋からの眺めがいつもくれた。
死ぬことはなさそうで、どうやら手術すれば大丈夫っぽい。
ここまで来て、やっと人に言えるようになった。上司、近しい友人、両親、家族。
それでも毎回、「乳がん」という言葉を発するには会話の中でふと勇気がわいたタイミングでしか言えなかった。そして相手が受け取るショックは、わたしがようやく乗り越えてきた数ヶ月をいとも簡単に戻す力をもっていた。
その場を繕う同情、親身な励まし、知り合いのガンサバイバー情報、まじで全部いらないからクールに受け止めて欲しい。低温対応でお願いします。
関係性にもよるが、わたしには概ねそれがありがたかった。
えぇぇぇぇぇ.... とか言葉を失うとか、過剰なリアクションは結構きつい。実際にはもちろん大ごとだし、自分が逆の立場だったらそんな風にしてしまうかもしれないが、その手の反応の後には大体、“そっち側の人”と線を引かれているような孤独を感じることが多かった。
では文面はどうか。リアクションは見ないで済む、がメッセージの送信とともに最大級の配慮を相手に背負わせることになってしまう。しかも唐突に。
もうこうやって書いていると、わたしがセンシティブすぎ、気にしすぎ、それに尽きる。
間違いない(笑)
そして、今回の場合「乳がん」をようやく経たところに、遺伝子検査からの「全摘」という決断が最後の最後に加わった。
パトラッシュ、もう疲れたよ
遺伝子検査については説明が必要だし、再びパワーワードを投げる力は残ってなかった。
仕事のチームメンバーには「婦人科系の病気でちょっと入院することになって.....」とだけ伝えて休みに入った。“婦人科系”というと男性はそれ以上聞いてこないし、女性は大なり小なり想像できる経験や知識があるので、同志のような眼差しで“深くは聞かない”という優しさをもって送り出してくれた。
もし、同じような状況の人がいたら “婦人科系”、使ってください。
プロフェッショナル
たまたま今年4月に西加奈子のノンフィクションエッセイ『くもをさがす』を読んでいた。著者がバンクーバーで乳がんを乗り越えた話。
そこには、当時の看護師さんや医師たちの対応があまりにあっけらかんとしていて救われた、というような内容があった。誰もわたしを可哀想な人扱いしなかったと。
これを読んだ時、あぁ...海外らしいなぁ〜〜とわかったような感想を持って妙に記憶に残っていたのだけど、自分がいざ入院してみたら、日本も一緒だった。
今日は、パジャマの上に羽織っていたユニクロのボアジャケットの内側に左右ポケットが付いているのを発見して、そこにドレーンの袋を入れて生活していたら「え!すごいw ぴったりじゃないですか!!!」と拍手をいただいた(笑)
しんどい時、結局一番救われるのはただ普通に居てくれることだ。(まぁ、それも関係性によるのでむずかしいのだけれども)
当人以上に大袈裟にしない、これは肝に銘じていきたい。
そして、これは少し文脈が変わるかもしれないがわたし自身もう少しわがままに生きようという気になっている。シンプルにというか。
他人の目を気にしすぎるのはもう辞め時だ。

10月28日
両胸摘出から術後8日目。
ドレーンとよばれる管が両脇から4本ぶらさがっていて、その先には袋が一つずつついている。
手術は麻酔を含めると10時間近くかかった(らしい)。
真っ白なオペ室で、エビのように丸くなって背中から麻酔を通された後、“今回の麻酔は呼吸器に近いところに効かせるので、完全麻酔ではなく少し弱いものを使っていきますね” というようなことを麻酔医から言われて、仰向けに戻りながら、え!?え?痛み感じるの!?こわいってーーーーー・・・・・と意識が遠のき、目覚めたら再びオペ室で「ぽてこさん、終わりましたよ」と看護師さんに声をかけられた。数年前に建て替えられたばかりのオペ室は、ドラマでもなかなか見ないほどの最新設備で、空間把握がバグるような白さというかNASAっぽさというか、真ん中にぽつんと置かれたベッドが妙に非現実的だった。左の壁には巨大なモニターがすっきりと埋め込まれていて、わたしがベッドに横たわるとmy脈拍が鮮やかに映し出されていた。
痛い。
麻酔から覚めると視界はぼんやりしつつも頭はしっかりと戻っていて、「旦那さまがお待ちですよ」という声かけに“あ〜待ってられたんだ、よかった〜〜”と思った。
痛い
息子のお迎えは同じマンションの友人ママに頼んだという。
「痛み止めは我慢せずに看護師さんに言いなよ」と病室を出る夫に返事をすると、一人になった。
痛い
そこから2、3日はけっこう頑張ったと思う。
痛みに耐えた、という点では間違いなく自己ベスト更新。
微動するだけで気が遠くなるという経験は、帝王切開をゆうに超えてきた。頭を動かすことも、スマホを目の前に掲げることもできない。食いしばると涙が出てきた。
息子といちばん長く一緒にいれる選択をしたつもりが、、いつの間にかとんでもないものを差し出してしまったかもしれない。朝玄関で息子にハグをして仕事に出かける、そんな日常を自ら手放してしまったのだろうか。わたしが一番失いたくなかったもの。
部分切除にしていれば......
馬鹿だわたしは。
痛みの中で思考を深めると、この後悔がどうしても頭をよぎった。
遺伝子検査の結果を聞いた日から、強く進もうと決めた日から、ほんとうはずっと抱えていた不安。
術後2日目の夜、父からLINEがきた。
“君には時々驚かされます。今回のことも様々な思いが凝縮された決断だったのだろうと察しながら、あなたらしさを素直に受け止めています。大きな決断をするときは、たくさんの思いも同時に入ってきます!誰しも。迷わないで自信を持って欲しい”
考えてみたら、大事な相談ほど人にしないわたしの性格は父譲りなのかもしれない。
自分の弱さも抱えて進めばよかったんだ。
そう思うと、覚悟を決めてから今日までの時間がなかなかしんどかったことを思い出して涙腺が決壊した。心のどこかをずっと鈍らせることで立っていたから。
わたしにしては結構がんばったと思う。
そっち側
何がどうして両胸全摘出に至ったのか。
これを話すのがしんどい。今も。
ざっと事実を並べると、会社で受けた健康診断の《要再検査》から、6月にステージ0という超初期の乳がんが見つかった。仕事の合間に通院を重ねさまざまな検査を一通り終えて、その他に異常はみられず手術に向けての準備がスタート。
そこでずっと迷っていた遺伝子検査も受けることにした。先生いわく、検査を受けた人の20人に一人が陽性っていうレベルのもの。がん=遺伝性という可能性はわたしたち一般人が考えているほどそんなに高くないとの説明もあった。
20人に一人、
そっち側だった。
今回の乳がんを切除しても、再発率40%。
がーーーん(一旦ね)
そんなのさ、20分の1を引き当てたわたしにとって、40%なんてほぼ100%なんですけど、と文系丸出しな感想しか浮かんでこなかった。
わたしにとって一番大切なこと。
それは息子と少しでも長く過ごせることだ。
先生の説明をぼんやりと聞きながらも、何をどう考えたってそこは揺るがない自分に安心して答えはすぐに出た。
全摘出
だん。両脇からチューブを垂らした術後8日の夜、これを書いているが、やっぱり何度考えてもこの答えを選んでいただろうと改めて思う。
べつに迷ってもいいだろ、とも思うので、結局よくわからないけど、
とにもかくにも、
痛みから生還しました。
いぇーーい(一旦ね)
大丈夫。日常は戻ってくる。
いまはそう思える。
人間の身体ってちゃんと回復してすごい。もう少し入院生活なのでまた書きます。
